舞台チ。を見た感想つらつら
舞台の演出とか、舞台ならではの行動描写とか、そういう【舞台】という表現方法だからこその演出、というのは一度おいて読んでいただけると嬉しいです。
そこはしっかりと理解したうえでどうしても個人的に観ていてちょっとな。。。と思ったことをつらつらと書いています。
前提として、自分が思う漫画『チ。』の魅力は、日常生活や恋愛描写など、他人と関わることで登場人物が深堀されていくパートがなく、物語にも登場人物にも重要な場面で、キャラクターの本質がはっきりと表現されていることだと感じています。
オクジーとバデーニ、ヨレンタとの日常だっていくらでも書けただろうに敢えて描写せずに、オクジーの覚悟やバデーニがオクジーとヨレンタに心を動かされたこと、ヨレンタさんの芯の強さ、それが全部、地動説を巡る流れの中でしっかりと読み取れるところが大好きなんです。
それを踏まえて、ブ。では演出上や脚本上の女性に対するスキンシップの多さや、ヨレンタさんに対する過剰な愛情表現が気になりました。
ようは、舞台によるヨレンタさんヒロイン計画が自分には合わなかったという話です。
特に顕著だったのは、ノヴァクとヨレンタの邂逅シーンだと思っています。
娘の手袋を外し、掌を撫でる仕草、音楽とダンスを伴った密着した抱擁は、親子愛というよりも性愛的・妖艶な空気を強く帯びており、生々しさが拭えませんでした。
これは個人の主観とも言えるので、本当に何言ってんだお前ェ!と感じる方はいると思います。
でも、本当、そこにそんな尺を使わなくても、そんなねっとり撫でなくても……演出でわかりやすいからとはいえ、14歳の思春期真っ盛りの少女を抱き上げて抱擁しなくても……と、過剰な親子愛の表現に異常な粘着性を覚えてしまいまして。
舞台では原作ファンが強く記憶している重要なシーン──オクジーとバデーニとヨレンタとピャスト伯の金星の満ち欠けを巡るやりとり、バデーニがオクジーに「感動」という概念を教える場面などが削られている一方で、原作には存在しないヨレンタとオクジーの穏やかな日常描写(文字を教える、共に天体観測をする、本を代わりに持つなど)が追加されています。
これらの追加シーン自体は、本来であれば歓迎されるものであり、求めていたファンも多いと思います。
しかし、物語の核となる思想的・知的継承の場面を削ってまで優先して描くべきものだったのかというと…結果として、バデーニとオクジーという二人の関係性が薄まり、作品全体の重心が変わってしまったように感じられました。
加えて、ドゥラカに対するスキンシップの多さも違和感を覚えました。
これには、シュミットの性格およびビジュアルの改変が大きく影響していると思われるんですよね。
原作では紳士的で騎士然とした人物だったシュミットが、舞台では黒服という外見も相まって、粗暴で粗野な言動の目立つ人物へと変質していた(いや、あの、本当になんでぇ?)。
その結果、ドゥラカに対して過剰に身体的距離の近い行為が自然なものとして置かれてしまっている印象を受けました。
原作において、シュミットがドゥラカに頻繁に触れる描写は存在しません。
彼女を性愛的なシンボルとして見ていないからこそ成立していた関係だったはずであり、その点が舞台では損なわれてしまったように思います。
ヨレンタもドゥラカも、原作では恋愛や性愛の象徴として用いられていないキャラクターです。
それにもかかわらず、舞台では女性キャラクターに対するスキンシップや情感表現が過多になり、ヨレンタに向けられる「愛」が過度に生々しく描かれたことが、チ。のキャラクターの命の輝きをジェットコースターで見ているような原作の儚さが損なわれていて凄く残念に感じました。
原作『チ。』が描いていたのは恋ではなく人生であり、日常ではなく一瞬であり、感情の共有ではなく信念の継承だと思っています
その前提が凄く好きだったので、今回の舞台はどうしても違和感の残る作品になりました。