ドラマ『きのう何食べた?』の脚本か監督が酷いって話
※原作未読です
※一話のネタバレを盛大にしていく
2019年春ドラマ初の視聴は、「きのう何食べた?」だった。
前情報はほぼ入れていない。西島秀俊がゲイカップル役をするんだよ~くらいしか入れていなかった。
とりあえず一番気になったこと
モノローグめっちゃ多くないですか?
原作未読なので間違っていたら申し訳ないが、漫画の料理シーンも主人公のモノローグで進んでいくのかもしれない。というか、おそらく料理漫画というジャンルなのだから読者に分かりやすいようにモノローグは多く含まれているだろう。
原作に忠実だという声も多いらしいが、もしもいちいちあの牛乳の値段に一喜一憂する心情をいちいち主人公に語らせるところまで忠実に再現しているのならば、それは「原作に忠実」とは言えない。
原作のシーンをそのままぶち込んだだけだよそんなのは。映像作品にした意味ねーじゃん、と思うのだ。
牛乳の値段に一喜一憂する西島秀俊
西島秀俊演じる筧は、料理好きの倹約家で、将来のことを見据えて生活をしている。
そんな彼は、仕事が終わった帰り道で、付近の店の商品の値段をチェックして安いものを買い求める。チラシのチェックも忘れない。
そんな彼がスーパーで買い物をしているときに、彼は語るのだ。安売りの表示には騙されないだ、やはりこの店でこの商品を買うのが安くて良いだなんだかんだ。
しかし彼は、一件目の店で購入した牛乳が、二件目で更に安く売られているのに気づいてしまう!
そして筧は語るのだ…。なぜこの店は普段よりも今日は牛乳が安いのかなんだかんだ。
んなモノローグいらねーーーーーよ!!!!!
そんなんさぁ、牛乳の値段の表記と西島秀俊の表情で分かるやん!!!倹約家な男がいつもの店で買う安い牛乳より更に安い牛乳がほかの店で売っててびっくりすることなんてもうそんなん値段の表示と西島秀俊の表情で分かるじゃん……。
西島秀俊の演技力を馬鹿にしてるのか、それとも視聴者が92円と98円の違いと西島秀俊の表情で状況が把握できない低能だと馬鹿にしてるのか……あ、してますよねそうですよねだって3年A組でも怒鳴り散らしてお説教して菅田将暉に全部言わせて、言葉で表現しなきゃ視聴者はなにを制作陣が伝えたいか分からないクソ低能だと思ってお説教ドラマ制作してましたもんね馬鹿にすんなクソが。
失礼、話が脱線しました。でも菅田将暉の経歴に傷がついたこと一生根に持ってやるからな。
とまあ冒頭からなんか嫌な予感がしていた。
料理工程を語りながら料理する西島秀俊
次は料理のシーンに文句を言っちゃうぞ~。
料理漫画というジャンルなのだから、このシーンは大切だと思う。
はい、出ましたモノローグ。
延々と料理を作りながら工程を語る西島秀俊。
もう途中から耳に入ってこなかったわ。
なんでそんなに西島秀俊の語りに怒ってるの?
それのなにがいけないの?
おそらくそう思う人もいるでしょう。
映像作品でやるからダメなんです。
簡単に言ってしまえば映像作品なんだから映像作品らしく原作をうまく調理して見せろって言いたいんです。
映像作品なんだから映像で表現しなくちゃダメなんだと思うんです。他の人がどう思ってるのかは知らないけれど、自分はそう思う。
言葉で全部説明してしまうのであれば、映像なんていらない。小説でも、レシピ本でも、それこそ原作の漫画でいいんです。ドラマにする必要がないんですよ。
せっかく料理を作る工程がフルカラーで見れて、おいしい料理が出来上がっていく様子を表現することが出来る。
映像作品には、そういう付加価値がついてくるのに、それを(この料理は~)などと料理を作り終わるまでに語られると、耳と目で映像と声を追うことになり、非常に疲れ、
そして単調になると思うんです。
中学校とか高校の授業思い出してみてくださいよ。
教科書の羅列された文字を先生が延々と読むだけの授業とかなかったですか?
聞き手である生徒の自分たちは、めっちゃ退屈じゃなかったですか?落書きとかしなかった?寝なかった?先生の声に60分間集中できた?こんなことするんだったら他のテキストやってた方がマシとか思わなかったですか?
このドラマ、そういう退屈な授業を30分のうち15分続けたんですよ。
でも、学校の先生は生徒の集中力を保つためにすることがありますよね。
質問や出題です。
いきなり〇〇くんここ読んでくださいとか、××くんこの問題解いてくださいとか。
いつ指されるか分からないから、仕方なく先生のつまんねー話に耳を傾け、教科書をめくっていた時なかったですか?
聞き手に対して投げかけをする。聞き手という存在を語り手は認識をし、語り掛けるんです。
きのう何食べた?にはその「聞き手」の存在がいないんです。
聞き手の存在
料理ドラマや漫画には、聞き手の存在が必要のないものも存在します。孤独のグルメとか。
だけど、今回の場合、料理ともう一つのテーマに「ゲイカップルの日常」というものも入り込んでくる。
このドラマには、とても良い「聞き手」がいるんです。
筧の恋人である矢吹の存在です。矢吹は筧の料理をおいしいといって食べてくれる存在。筧の料理に対しての熱意や創作意欲などに耳を傾けてくれるポジションになりえる。
つまりなぜ矢吹を「聞き手」の役にせず、筧のモノローグで料理シーンを終わらせてしまったのかということ。
ここに脚本か演出か監督がなんかひでぇんだろうなって思ったんです。多分脚本だな。
評判悪いし。
じゃあどうすればええんかったんや?
例えば、
・矢吹の帰宅を先にし、筧が料理をするところを矢吹に見せる。矢吹はそれに興味を示す。そして、筧が料理を作りながら、モノローグで語ったことを全て矢吹に対して話すんです。
この際の利点として
・筧が言ったことを矢吹がポイントのみを復唱することで、視聴者が簡単に料理のポイントのおさらいができる(料理ドラマとしての要素)
・筧が料理をしているところを見守る、または興味を示すシーンが増えることによってただならぬ関係だということを更に強調できる(ゲイカップルの日常としての要素)
があげられると思います。学校のこと話したからか知らんけどなんかレポートみたいになってんな。
ただ矢吹があの料理シーンにいるだけで、テーマである「料理」「ゲイカップルの日常」の二つがもっと面白くなってたんじゃないかなって思う。
漫画で復唱されたりするとレシピ本の強さが増すけれど、ドラマでセリフとして言うだけならば違和感がないんじゃないかな。
そういう「映像」でやればもっと面白くなるんじゃないかな~ってことが、できてなかった気がする。
原作好きの人はもしかしたら、いやここは遅れて帰ってきてハーゲンダッツのくだりがあるから~って思うかもしれない。
でもそこまで原作に忠実に全て西島秀俊に語らせるだけの料理ドラマにしちゃったら、こういう風に原作未読の人間が、こうした方がよかったんじゃないの?って難癖付けてくるんです。ごめんね。
ハーゲンのくだりは後から西島秀俊が冷凍庫見たら発見してちょっとした喧嘩に~とかで補完ができる。
原作に全部忠実にするんだったら、映像にしなくていいじゃん。
酷い改変とかクソ劣化とか人気だけの棒読み俳優女優モデル使われるとか、今回はそういうのじゃないんだから、ちょっとだけ映像作品に寄せてみたきのう何食べた?見たくない?
自分は原作読んでないから分からないけれど、せっかく映像作品になったんだから映像作品に寄せた作品が見たいなって思うんです。
このままじゃ、ただ西島秀俊が延々と語って料理するだけのレシピ映像になっちゃう気がする。
ちょうどギャオで配信されているので「家政夫のミタゾノ」を良い例にあげると、まずミタゾノが披露する今から出来るちょっとした家事知識の聞き手に「同じく家政婦のヒロイン」「家政婦を雇ったゲスト」が存在します。
そしてミタゾノの説明をもとに雇い主が、「美味しい」や「すごい」などとその場で反応を返したり、彼らやヒロインがポイントを復唱をしたり、時には己の知識を生かして行動するも、更に良い情報をミタゾノが提供するという、「有益な情報を教える」という必ず入れなければいけない要素がマンネリ化しないよう、様々な聞き手を用意し、更にその聞き手の反応や行動も用意してあり、話が発展していきます。
きのう何食べた?には、矢吹というとても良い聞き手がいるのに、活用していない。
そこがなんだかなぁ、と思ったわけなんです。
やべぇオチがない。
えーと、つまり西島秀俊のモノローグ料理シーンが続くんだったら脚本クソだなって話でした、はい終わり!
追記
投稿し終わってすぐにやべぇ内容に全く触れてねぇ!って思ったんだけど面白くなかったから仕方がないよね。